ぽけっとぽけっと

あ、またシャンプー買い忘れた。

アボカドの固さ ―ドキュメンタリーとフィクションのあわい―

アボカドの固さをそっと確かめるように抱きしめられるキッチン

         俵万智『プーさんの鼻』( 文藝春秋、2005)

 

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アボカドを最初に食べた時のことをよく覚えている。小学四年生の頃。母親がアボカドをつまみにビールを飲んでいた。おすすめはわさび醤油をつける食べ方らしい。どんなものかと気になり食べてみると、わさびと醤油が口を支配したのち、なんだかよくわからない青臭さが漂った。今思うと、あれは食べごろのアボカドではなかったのかもしれない。 

avokatas.com

 

映画「アボカドの固さ」は、5年付き合った恋人(しみちゃん)に突然別れを告げられ、途方に暮れながらもどうにか復縁できないかと画策する俳優(前原)の物語である。と、ここまで聞くと「なんだよくあるやつね」と思われるかもしれないが、ちょっと違う。この物語、原案は主演の前原瑞樹本人の経験なのである。つまり、主演の経験を本人自らが演じて映画としている。これはおそらく、あまり例のない作品だ。劇中では振られた前原が右往左往するなかで別の恋を探してみたり、友人と喧嘩してみたり、なれない煙草を吸ってみたりと僕を含めた男性諸君の泣き所を的確に叩く「イタさ」が散りばめられている。劇中、傍らに枕があったら顔をうずめて「うわあぁぁぁ」と叫びたくなる瞬間が5回ほどあった。

 

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スクリーンから吐息が薫るようなリアリティの源泉となっているのは「言葉」と「映像」の巧妙な演出によるものだと思う。

例えば、言葉遣い。

振られた前原が後輩を集めて飲み会を開き、失恋を「ネタ」にしてその場の主役として話をし、オチを付け、場を回すシーン。セリフ、表情、仕草、場の空気感のどれをとっても現実そのもので、隣のテーブルで酒を飲んでいる気分になる。ほかにも、正直よくわからない元カノ(しみちゃん)の話、すこし噛み合わないしみちゃんのお母さんとの会話、途端にオラオラ口調になるキレた後輩…などなど挙げればキリがない。「自然風」な映画やドラマはよく見てきたが、ここまで「自然」そのものな言葉遣いは初めてだった。

例えば、映像。

ワンカット、長まわしの映像が多く、カットが割られた映像よりも格段に現実味を感じられる。そして一瞬、話者がどこにいるのか戸惑うほど「引き」の映像も多く、のぞき見している感覚、あらゆる地点でたまたま見ちゃった聴いちゃったという感覚が蓄積される。そして無言のタクシーの車内や食事シーンなどがたっぷり使われる。そこにはたぶん、一見特に意味はないように見えるけれども、ともに時間を過ごしている感覚を与えるという効果があると思う。

 

こうした演出のもと紡がれたこの物語。一見するとドキュメンタリーなのか、フィクションなのか判断がつかない。

上映後のトークイベントで監督の城真也氏が「いくつか脚色したり、時系列を入れ替えたところはある」と言っていたので分類としてはフィクションになると思うが、「主演の経験が原案となっている」という強烈な個性に加え、前述した演出も相まってドキュメンタリー寄りと感じる。しかしとはいえ、いわゆる「ドキュフィクション」や「モキュメンタリー」ではない。そんな、ドキュメンタリーとフィクションのあわいで絶妙なバランスをとって存在している。そういう意味で、新しい映画だったと思う。

 

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終盤、前原がしみちゃんと再会し、胡散臭い手相占いをするシーンがある。ここの解釈をめぐり、同じく作品を見た同年代の女性と見解が分かれた。

彼女曰く、「『なぜ手相占いをして、90何歳まで長生きする、多くを望まなければ仕事でも成功する』など言っていたのかよく理解できない」と。上映後のトークイベントに登壇した映画監督の冨永昌敬氏も「あの手相占いはどれぐらい信憑性があるものとして捉えればいいのか」と城監督に質問していた。

恋愛雑魚の僕が僭越ながらあのシーンを補強すると、前原はその前に、クラブでナンパした女に手相占いを教えてもらい、「自然と手を触れられ、自然と恋愛の話に発展させられる」という旨味を知っている。僕自身の記憶でも「手相を学べば自然と女性の手に触れられる」と得意げに語る先輩の姿がある。(僕の手相は「めちゃくちゃラッキーなやつ」らしい)

だからこそ、再会したしみちゃんに「手相占ってあげるよ」と切り出し、意図的にふれあい、自然と恋愛の話へ移行しようとしたのだ。しかし現実は上手くいかない。健康のことや仕事のことなど、恋愛とは関係ない運勢を聞くしみちゃんに対し、前原はその場しのぎの適当なことを口走り、最後は自ら恋愛線は…と喋り始める。そんな前原の下心と必死さと不器用さが表れたシーンだと思う。

その旨を先述の友人女性に伝えたところ「多くの女性は『異性に触れたい』という気持ちを持っておらず、その動機は理解し得なかった」と返ってきた。うーんたしかに。またひとつ、僕が「当たり前」と思っていることが当たり前じゃないと思い知った瞬間だった。

 

ちなみに城監督と僕は同じ1993年生まれで、同じ大学かつ所属していたコミュニティーが近かったこともあり、彼のことを一方的に知っていた。そんな彼の作品に少なからず嫉妬し、「がんばらなきゃ…」と静かにこぶしを握る僕もまた、青くて固いアボカドのように未熟なんだと思う。