ほしにねがいを
チェット・ベイカーという、素敵なジャズミュージシャンがいます。
僕は彼の音楽が大好きで、よく聞いてます。
彼の曲の中でも、群を抜いて有名かつ好きな曲に、「but not for me」という曲があります。
Chet Baker - But Not For Me - YouTube
歌詞の冒頭を簡単に訳すると
They're writing songs of love - but not for me
A lucky star's above - but not for me
With love to lead the way I've found more skies of gray
Than any Russian play - could guarantee
愛の歌が溢れ、幸運の星が瞬いているけど、それらは僕のためじゃない。
恋に誘われたけど、そこには暗雲が立ち込めていて、ロシア映画でさえこんなことにはならないだろう…
みたいな感じです。かなり適当に訳しました、すいません。
気怠そうな歌い方が特徴的ですよね。すごく素敵です。
歌詞をじっくり読んでみると、マドンナへの恋に絶望するものの、「まぁ、がんばるしかないわな」と小さなため息をこぼす青年の姿が目に浮かびます。
なにかがとことん上手くいかないとき、世の中の全てにムカついちゃうことがあります。どんなに素敵なものに出会っても、それこそ「だけど、僕のためじゃない」なんて思っちゃって、そっぽを向きたくなるあの気持ちです。そんなとき、まぁしょうがないかと開き直れるかどうかが人生を左右しちゃったりするんだろうなと、勝手に思ってます。
ちょっと遠くにあるものを目指して、手を伸ばしながらも、やっぱり上手く行かなくて、「やれやれ、だな」とか村上春樹っぽく自嘲的に生きていくのも悪くないと思います。
背筋をピーンと伸ばして生きていくのも大事ですが、適度に息抜きして生きていきたいと思います。
大きな失敗、親友の裏切り、哀しい失恋、親しい人の死、その全てが心の成長痛なんだと思います。
思います、思います、思います。
世知辛い世の中ですが、どうにか頑張りましょう。
くるりと自分に9割方向けた、自己満足メッセージでした。
ピーン
まーたねーん
なんとなく、新宿御苑
何かと諸用に追われて、パタパタ走り回った夏が過ぎ去り、季節は秋。
勤務先から近いこともあり、なんとなく新宿御苑に寄ってみた。
お昼下がりの公園は、ぽつぽつと人がいて、人混みが苦手な僕にとってはありがたい。
ベンチに座って本を読む人、小さくまとまって話をしている老人達、楽しそうに駆けまわる子供と、その母親らしき人達。そして、磨り減ったスニーカーで地面の感触を確かめながらのんびり歩く僕。
遠くの木々が微かに動いたかと思うと、少し遅れて風が吹く。
最近肌寒くなった風が、僕のシャツを膨らませる。この風は、どこへいくのだろう。
この公園を抜けて、狭苦しいビル街を抜けて、墓を抜けて、東京タワーを抜けて、海へ出るだろう。その先はどうなるだろう。潮風に打ち消されるのか、それとも、遠い異国の地まで旅するのだろうか。
公園では、そこに集まる人々の、人生の一コマが切り取られている。それぞれに両親がいて、呼び名があって、友人がいて、好きな人がいる。僕はそれらを全て知りうることが出来ないし、知るつもりもない。どこか知らない街に行ったとき、すれ違う人々や、通り抜ける路のすぐそばに、誰かの人生がぎっしり詰まっていると思うと、なんだか悔しいような、むず痒いような、不思議な気持ちになる。日常は、そんなことで溢れている。
いつの間にか、ぼーっと立ち尽くしていた。遠くには、新宿の摩天楼が見える。
誰かに呼ばれた気がする。でも多分違うし、振り返ったら負けな気がする。(僕はたまにそういう自分勝手な勝負をたのしんでる)
ざわざわと、またしても遠くの木々が騒ぎ出す。
最近ずっと放ったらかしていた髪が、ぐわっとなびく。
その風に押し出されるように、僕も歩き出す。
すたすた、すたすた。
今日の晩ご飯は、何にしようかな。
またねん。
「募金」にちょっとイラッとしたはなし
はいさい!
梅雨とは思えない天気が続きますね。
夏はもう目の前まで来ています。
はてさて
今日は一部の方々に喧嘩を売ってしまうことになると思います。
今回お話したいのは、「募金」という行為のコスパの悪さについてです。
先日、とある駅前を歩いていると、非常に大きな声で学生らしき人物たちが叫んでいました。
「ネパールには小学校がたりませーーん!みなさんの善意を分けてくださーーーい!」
いわゆる募金活動です。みなさんも何度か目にしたことがあると思います。今回僕が遭遇した募金活動というのは、人でごった返す駅前広場に大学生らしき人物たちが10人ほど並び、「ネパールに小学校を!」という垂れ幕と募金箱を携えた集団でした。どうやら、どこかの大学のボランティア団体が主催しているようです。
僕は真っ先に思いました。
コスパわっるっ!!!!
前々から思ってはいましたが、改めてその効率の悪さを目にして僕はこんな顔でその人々の前を通り過ぎました。
(も、もうちょっとハンサムだよ)
募金のコスパの悪さ
簡潔に述べます。「ネパールに小学校を作る」ということが目的なら、回収できる額なんてたかがしれてる募金なんてせずに、みんなしてバイトすればいいなと思うのです。
これは何も彼らに限ったことじゃありません。
「東北に救いの手を!」や「カンボジアの子どもたちに未来を!」みたいな募金活動もみんな一緒です。
別に彼らの善意を否定しているわけではありません。そういう志を抱くことは非常に素晴らしいことだと思います。ただ、あまりにも費用対効果が悪いと思うのです。
これが小中学生ならまだわかります。彼らは働くことができませんからね。ただ、バリバリバイトのできる大学生が10人も集まって突っ立って大声だして金を集めようとはどういう了見なんだい??と少女革命ウテナの瑠果ばりの喧嘩腰にならざるおえません。
それでは、わかりやすく考えるために「募金」のメリット・デメリットを考えていきましょう。
募金のメリット・デメリット
早速募金のメリット・デメリットを比較してきたいと思います。
メリット
・問題を広く周知できる
・街ゆく人々のちょっとした善意を汲み取ることができる
・集まったお金によって困ってる人を救うことができる
・みんなの善意を届けることができる
こんなところでしょうか?
デメリット
・前述した通り、大学生がやるとなるとあまりにもコスパがわるい
・送金経路が分かりづらく、信用しにくい
・「募金しないの〜?空気よめよ〜〜」的な雰囲気を作る
↑ちなみに僕はこれもかなり苦手です
とりあえずこんな感じだと思います。
これを比較した上であなたはどちらをとりますか?
結論
いろいろ反論が来るかとは思いますが、僕は募金活動なんてしているボランティア大学生は、「いいことしてるなぁ!!!」と自己満足に肩までどっぷり浸かった方々だと思ってます。見事なまでに募金という手段が目的化してしまっています。
お前は何も行動してないくせに偉そうなことを言うな!!と怒られそうですが、やっぱり効率悪い行為を見せつけられていい気持ちはしません。そこでこの文章を書かせていただきました。
これに対してどういう反論が来るのかワクワクしながらここで終わります。
そんじゃーね!
2013/06/29追記(募金をバカにするな・ぐうかわJDはズルい)
・募金をバカにするな
とある友人から面白いデータを提供してもらいました。
NPO法人青年協議会http://seinen-kyougikai.jp/wp/という団体についてです。この団体、いろいろ素晴らしい慈善活動を行なっているようなのですが、その活動資金の殆どを募金によって成り立たせているそうです。凄いですね。なんとその額9千万円!!その詳細がこちら
ほんとに募金なの?という疑問は置いといて、凄い数字ですね。
このように、ある程度有名な団体(UNICEFとか)なら募金という行為もそこまでコスパ悪くはないのかもしれませんね(募金にかける人員や手法を知りませんが)
・ぐうかわJDはズルい
先日、キャンパス内のベンチでのんびりしていたことろ、とある女子大生に話かけられました。正直に言います、相当可愛かったです。俺も捨てたもんじゃないなと思って話を聞いてみると
『東北の町を支援するために活動しています!そのためにこのリストバンド¥300を買ってください!><』
もう、ほんと驚きました。ちょうどこの募金のコスパの悪さについて考えた翌日にこういったことになるとは思いもしません。募金ではなく、こういった物品販売→一部を寄附というスタイルもあるということをすっかり失念していました。そのリストバンド、ここで写真を掲載したら本格的に怒られそうなのでやめますが、誰がつけるんだろう…?といったデザインでした。でかでかとWASEDA KEIOと書かれていて、愛校心マックスな方ぐらいじゃないと装着する難易度はかなり高いと思われます。
正直に言って、これもかなり危険だと思います。話によると、原価はひとつ¥100ほどで、残りの¥200を寄付するんだそうです。300個仕入れたらしいです。売りさばくにまぁまぁ困ってるようでした。
ここで冷静になって考えてみましょう。
もし仮に全部売れたとしても、
200×300=60000
で六万円の利益しかあがりません。
時給900円のお店で10人が6時間働いたのとほぼ同じです。
更に、そういった物品販売は『在庫』という大きなリスクを背負うことになるのです。この恐ろしさは販売系の職場を経験した方ならよくわかると思います。
この話を聞いて瞬時にこの話はうさんくさい!そもそも団体の紹介とかもしてないしどうやって送金するかも曖昧だしなんだこいつら!
と警戒心を最高に高めた僕は、同時にダンガンロンパしたいという気持ちにかられました。
しかし、如何せんその女子大生が可愛いかった。いわゆるぐうの音も出ないほど可愛い、ぐうかわJDです。僕も男です。一匹のオスです。可愛い子を虐めて愉しむたちの悪い趣味もありません。
僕『すいません、生憎持ち合わせがないんです…でも応援しています!頑張ってください!』
そう言って僕は爽やかスマイルでエールを送ってその場を去ったのであった…ズルい、ぐうかわJDはズルい!!!(おわり)
田山花袋「蒲団」を読み解く。人間はそんな変わんない。
はいさい!
先日は宮崎で田舎ライフを謳歌した後藤です。
ちなみにこんな感じ
みやざーき
一足先に新緑の風が稲穂を優しく揺らします。
思わず口ずさむ「少年時代」
ノスタルジックな感情に肩までどっぷり浸かれますね。いい曲です。
はてさて
僕は旅に出る時必ず何冊かの本を持っていきます。
それも適当に選ぶのでなく、何かしらのテーマを設定することが多いです。
そして今回のテーマがズバリ「恋愛」です。別に傷心旅行じゃないです。
「ナルシスト臭がプンプンする!!!」と戻るボタンを押そうとしたあなたちょっと待って下さい。そこまで嫌な気持ちにはならないと思います。多分。
そんな僕が選んだ2つの恋愛小説はこちら
言わずもがな、村上春樹の代表作。因みに僕とワタナベくんとは同い年です。
「愛すること」とは何なのか、考えさせられる作品です。
村上春樹独特の表現も素敵です。やれやれ。
②蒲団
私小説の先駆けと言われる、恋愛小説の原点のような作品です。
簡単にあらすじをお話させていただくと、子ども二人と妻の家庭を持った文学者と、そこへ弟子入りしてきた美しい娘との恋愛物語です。
「教えるー教えられる関係」というのは今も昔も恋愛物語の典型だったのだなぁとしみじみします。
今日は、この蒲団の中で特に気に入った部分があるので紹介させて頂きたいと思います。
ここが凄いよ「蒲団」
以下は、自分の可愛い弟子「芳子」にふられた主人公が芳子の影を追って、芳子の部屋を物色するラストシーンです。じっくりとお楽しみください。
時雄は雪の深い十五里の山道と雪に埋れた山中の田舎町とを思い
性慾と悲哀と絶望とが
薄暗い一室、戸外には風が
どうですか?気持ち悪いですよね。
でも僕はこの主人公の気持ちが痛いほど分かります。
ここで注目してほしいのが五感をふるにくすぐる表現の数々です。
この短い文章の中で、美しい娘が去った寂しい部屋の様子、そして残された哀しい男の姿がありありと浮かんできます。
これが今から100年以上も前に書かれたといのだから驚きですよね。
所感
時は変われど、人は変われど、やはり「恋愛」を巡る人間劇というのはそこまで変わらないのだなぁと思います。
つい先日のことですが、先述したノルウェイの森の原点となる作品、「蛍」を読みました。
そこで強く感じたのが、作中に登場する「手紙」や「電話」というコミュニケーションツールの違いです。
「蒲団」でもそうでしたが、かつての作品の世界と現代で最も異なるのはコミュニケーションツールでしょう。僕のような一端の大学生からすると、ケータイが無い状態で大学で生きていける自信がありません。友達と簡単に約束も出来なければ、試験やその他の情報交換もできませんしね。
でも、そんなものがあろうと無かろうと、それを使う人間はそんなに変化してないんですよね。
要するに、恋をしてしまえば誰しも馬鹿になってしまうのだと思います。
それは、とても愛すべき状態だとも思います。
そんな感じです。雑ですね、我ながら呆れます。
「蒲団」いい作品でしたよ。是非ご一読を。
そんじゃーね!
女性教育の先駆者、成瀬仁蔵記念館から感じたこと。
はいさい!
ご無沙汰してます後藤です。
はてさて
先日、僕の大学のすぐ近くの日本女子大学へ行ってきました。
べっ別にナンパ目的とかじゃないんだからねっ!!
そんな僕がなぜ日本女子大学ことぽんじょへ行ってきたかというと、ぽんじょ創設の父、成瀬仁蔵記念館へ行くためです。
ぽんじょ正門。入るのドキドキ。
成瀬仁蔵とは?
成瀬 仁蔵(なるせ じんぞう、安政5年6月23日(1858年8月2日) - 大正8年(1919年)3月4日)は、明治から大正のキリスト教牧師(プロテスタント)であり、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、日本女子大学(日本女子大学校)の創設者として知られる。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%80%AC%E4%BB%81%E8%94%B5 Wikipediaより)
僕が尊敬する大隈重信、福澤諭吉、新島襄に並ぶ偉大な教育者です。
こんなお方
成瀬はしばしば、自らの生涯の目的は「天職」を全うすることだと日記に記していたそうです。「天職」ーーそれは、理想的な社会を創ることでした。成瀬は同じく日記の中で自らの天職を「社会改良者」であると記していたそうです。今風にいうなら「社会起業家」ってところでしょうか。
成瀬仁蔵が遺したもの。
大隈重信や渋沢栄一、内海忠勝や西園寺公望、伊藤博文などの政治経済界の偉人達を動かすほどの成瀬の固い意志と、その行動力には脱帽せざるおえません。その詳しい歴史はぜひ成瀬仁蔵記念館(http://www.jwu.ac.jp/grp/naruse_memorial.html)に足を運んでみてください。アツい男のドラマに勇気づけられます。
そんな成瀬は、子どもをもうけることなく生涯孤独に過ごしたそうです。
しかし、彼が遺した日本唯一の女子の学び舎と、大勢の教え子達が彼にとっての最大の遺産だったと思います。
そして今年で創立112年を迎える現在の日本女子大学にも脈々とその想いは受け継がれています。
今考える、女性教育とは?
安倍政権が打ち出した育休3年や、企業の役員に女性を雇用することを義務付けるなど、未だに日本社会は女性との付き合い方に困惑しています。(ちなみに僕も個人的に女性との付き合い方に困惑しています)
そんな今だからこそ成瀬の教育理念「女子を先ず人として教育する」そして現在の日本女子大学の教育理念である「現代社会が抱える様々な課題の解決に役立つ高い専門能力と、それを生かすことのできる応用力と表現力、時代の変化や多様な価値観に対応できるフレキシブルな完成を育成すること」が再評価されるべきだと思いました。
日本の優秀な女性をどのように活かしていけるかが今後の日本社会の大きな課題の一つだと思います。
最後にー成瀬仁蔵の最期ー
肝臓癌を患った成瀬は、最後の最後まで教壇に立ち続け、1919年3月4日午前8時20分、多くの学校関係者に見守られながら静かに息を引きとったそうです。享年60。自らの意志を貫いた、素晴らしい人生だと思います。
そんな彼が最後に遺した言葉が
「オオ万事好都合だ、総て満足だ」
だったそうです。
こう呟きながらこの世を去りたいものですね。
僕もこんなことをつぶやいてこの世を去れるような人間になりたいと思います。
成瀬仁蔵、本当に素敵な人ですね。大ファンになりました。
日本女子大学は男性でも入れるらしいので、みなさん是非いってみてください。
そんじゃーね!
凡人でごめんなさい。会田誠展から感じたこと。
はいさい!
新宿は豪雨です。
そんな群青日和な毎日を過ごす後藤です。
本日はちょびっとグロ注意。
はてさて
今日は先日閉幕した会田誠展「天才でごめんなさい」で感じたことを書きたいと思います。
そもそも、”会田誠”って誰なんでしょう?
会田 誠(あいだ まこと、1965年10月4日 - )は、日本の現代美術家である。奈良美智や草間弥生らとともに『新ジャポニズム』の代表的な作家とされる。(Wikipediaよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E7%94%B0%E8%AA%A0)
この人です。結構ハンサム。
そしてこのダンディな方が描いた代表作がこちら。
《切腹女子高生》
2002年
アクリル絵具、ホログラムフィルム、透明フィルムに出力
119×84.7 cm
渡井康之氏蔵
Courtesy:Mizuma Art Gallery
いやー僕のような凡人からするとこんな作品を書くなんて到底思いつきません…
僕の場合、彼を知ったきっかけは一冊の本でした。
はい。マジキチですね。
「お前ってドSだよなw」みたいな会話に見られるS、つまりサドはこの本の原作者であるマルキ・ド・サドからきています。
そのサドが書いた「ジェローム神父」という過激な作品と会田誠の「犬」や「食用人造少女・美味ちゃん」シリーズの画を組み合わせたのがこの本です。
純粋な興味からこの本を手に取った当時中学3年生の僕は、かなりの衝撃をうけました。とりあえず、イクラを食べることに抵抗を覚えました。(気になる方は会田誠 とれたてイクラ丼でぐぐってみてください)
という感じで、かなり問題のある作品を多く残している方です。
しかし、その卓越した技能で描かれる大胆な発想は群衆を惹きつけて止みません。
そんな彼が六本木の一流美術館で大規模な個展を開くというなら、これは行くしかない!ということで行ってきました。
意外にも、彼は「義務感」で行動していた。
そんな彼に、僕は偏見を抱いていました。
”きっと自分の本能の赴くまま、感性を爆発させている天才なんだろうな…”
しかし、そんな偏見は見事に打ち砕かれました。
展覧会で公開されていたインタビューや、手記を読んで真っ先に思ったのは
「◯◯しなければならないと思った」
という記述が多くみられるということです。
例えば
「戦争について書かないといけないと思った」
→美しい旗、紐育空爆之図
「哲学書を読まないといけないと思った」
→ハイデッガーを読んで感じたものをアクリル板に書く
といったところです。
彼は、意外にも「義務感」で行動していることが多かったのです。
もちろん、例外もあると思います。しかし、彼の作品の殆どに”義務感”、から生まれる何かしらのメッセージが明確に存在すると感じました。
どうして彼が天才なのか?
自分がものすごーく未熟者であるということは重々承知しております。
はい、見え透いた予防線を張ったところで
ここでは会田誠の凄さについて考えていきたいと思います。
あんまり長くなっても面白くないと思うので、簡潔にまとめます。
会田誠の凄さとは、ごく自然に己のwantを社会のneedの中で爆発させることが出来ることだと思います。
彼の場合、上に掲載した作品のようなものを好む”社会”を絞って絞ってneedを嗅ぎ当て、自分のwantを爆発させていると思います。
彼は、そういう意味では天才だと思います。
つまり、ある“社会”のneedを嗅ぎ当てる天才でしょう。
そこには彼がもともと芸術で食っていく気はなかったという点も大きく関係していると思います。
どれだけ素晴らしい才能や技術を持っていても、社会のneedを読み取らないと成功できません。例えば、ゴッホやピカソ、シューベルトのように死後、社会のneedがたまたま合致して高く評価される人がいました。しかし生前に評価されないことには、地位も名誉も財産も手にすることが出来ず、家が大富豪でもない限りは非常に苦しい人生を送ることになりかねません。
とある社会のneedを上手く嗅ぎ当て、そこで自分のwantを爆発させる…ここを徹底しているのが会田誠なんだと思います。
ここまでくると彼は一種の奇才でもあると思います。
うーん、なんだかお粗末な結論になってしまいましたが、とりあえず会田誠展は素晴らしかったです。三時間半ほどがっつり楽しませてもらいました。一見の価値は絶対あると思いますよ!
それでは
またねん!
凡人でごめんなさい。
19歳の井戸端会議。僕らは「何者」として生きていくのか。
はいさい!
お久しぶりです。この一ヶ月、ブログのネタには困らないぐらいいろんなことがあったのですが、何となく気分が乗らなかった後藤です。
今日は先日行われた”19歳の井戸端会議”について書きたいと思います。
ちょっと”痛い”内容かもしれませんが、どうかお付き合い下さい。
今回のファシリテーター、真辺くん。
僕が女の子ならこういう人を好きになると思います♡
はてさて
突然ですが、今年の直木賞受賞作、読みました?
それがこちら。
”◯◯、△△やめるってよ”のネタでお馴染みの「桐島、部活やめるってよ」の著者朝井リョウさんが書いた「何者」です。
まず本を開いて飛び込んでくるのが登場人物達のtwitterアカウント。
そこに躍る文字達のリアルさに、ある程度twitterを利用している人ならヴッ!!となるでしょう。
今回の作品は、日本の学生の殆どが通る道である「就活」をtwitterやFacebookといった現代を象徴するツールであるSNSを絡めて描いた作品です。
そんな「何者」を読んで、考えたことを語らうというのが今回の19歳の井戸端会議の目的でした。
議論を終えて
今回の19歳の井戸端会議では
・なぜ自意識は暴走してしまうのか
・どうしたらそのジレンマから逃れられるのか
・ソーシャルメディアの時代で、個人はどうあるべきなのか
・"意識高い"という現象は一体何なのか?
・本当の意識高いとは何なのか?
といったことを議論してみました。
議論の詳細を記載すると途方もない文量になるので、とりあえず感想だけ述べたいと思います。
まず言えるのは、自分とは全く違った方面からの意見がぶつかる議論のもたらす充実感は尋常じゃないということです。今回の企画担当の真辺くんは満足いってなかったようですが、こういうのも悪くないんじゃないかなぁと思います。
結論を出すことに縛られず、とりあえず議論してみる場所というのは絶対必要だとも思います。この感じ、続けていきたいです。くせになっちゃいますね。
強いて言うならばもっとハッとするような議論を展開できるよう工夫していきたいですね。なんか偉そうなこといってすいません。
おわりにーきっと何者になれないお前たちに告げるー
年をとるということ、つまり時間の経過というものは、誰にでも平等にやってきます。僕は今、19歳です。 僕で言えばあと半年で20歳。タバコを吸っても、酒を飲んでも、風俗に行っても別段問題ではありません。更に言うなら、悪いことをすれば容赦なく刑務所行きです。
20歳になる準備なんて何も出来ていないのに、後ろからグイグイ押されて20歳になるような、そんな感じがします。昔は楽しみだった誕生日も、今となっては嬉しいような、怖いような、複雑な気持ちで迎えるようになりました。それは多分、「まだ若いから」というドーピングというか、言い訳というか、そういう薬みたいなものが切れていくことを身をもって体感しているからなのでしょう。幼い頃はいくらでも大きなことを言えたし考えられたのに、今となってはリスクやお金のことを考えて、嫌になるくらい現実的に物事を考えるようになってしまいました。(それが成長ということなのでしょうか?)
人間、誰だって自分が主人公やヒロインでありたいものだと思います。(もちろん例外の方もいると思います)しかし、自分がドラクエの村の住人のような存在であるということに段々と気づいていくなかで、自分は「何者」かになれるのかという不安を抱き、闘っていくのでしょう。そんな時、twitterやFacebookといったツールで、誰でもどこでも簡単に自分は他の群衆とは違う「何者」かであるということを必死にアピールしたくなるのだと思います。僕自身もそうでした。ちょっと立ち止まって、本当の自分について、自分の実力について確りと考え、鍛錬していきます。
廻るピングドラムという僕の好きなアニメ作品の中で、こんな台詞があります。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」
この台詞を聞いたとき、ヴッ!と胸に刺さったのを覚えています。
確かにこのまま行くと、きっと何者にもなれないかもしれない。でも、そんな自分を下手に取り繕わずに、自分の無力感と闘いながらも、理論と実戦を積み重ねて成長を繰り返していく。そういうことが大切なのかなぁと未熟ながらも考えてみました。
我ながら、結構”痛い”お話になってしまったなと思います。でも、そんな痛い自分を敢えてここに書き記すことで、きっといつか美味しいお酒の肴になったりするのでなはいかなぁと願って今回のお話を終わらせて頂きたいと思います。
またねん