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ぽけっとぽけっと

あ、またシャンプー買い忘れた。

新宿のまんなかで

 

「ねぇ、知ってる?映画館の近くにはだいたいマクドナルドがあるのよ。私はね、映画が始まる時間よりもだいぶ早くに映画館へ来て、マクドナルドでハンバーガーなんかを食べながらボーっとするのが大好きなの」

 

 飲み会で面倒な女にひっかかったのではない。世界有数の大都会、東京は新宿の三丁目、たくさんの人が行き交う道端で、彼女は歩きゆく観客たちへこう語りかけていた。見ると、来週末に近くの劇場で行う公演の宣伝らしい。オリーブ色のスカート、白いシャツを着た彼女の耳元には、赤い木の実のようなピアスが揺れている。整った顔立ちを豊かに変化させながら愉しそうに一人、劇を演じていた。

 

 僕は路上の小劇場を何気なく通り過ぎたあと、ちょっと離れたところでさも誰かを待っているかのような素振りで立ち止まった。彼女の声がよく聞こえる。どうやら何かしらのストーリーに沿いながら、自由に言葉を紡いでいるらしい。

 

 彼女の前を多くの人が通り過ぎる。何も聞こえていないかのように素通りする人、チラチラと見ている人、通りすぎた後にクスクス笑っている人、いろんな人がいる。決して反応が良いとはいえなさそうだが、彼女は続ける。

 

 「あのね、私は主人公気質なの。小中高と、何か主役になれそうな機会があれば真っ先に手を挙げてきたわ。学級委員、生徒会長、部活のキャプテン、なんでもよ。でも社会に出てみたらどうかしら。私は主人公どころか、この社会の脇役にさえなれていない気がしてならないの」

 

 一体どんな話なのだろう。僕はイヤホンをつけている。音楽はかけずに、彼女が大都会の真ん中で語りかける言葉に耳を傾ける。

 

 「いま、私ね、なんだか大きな瓶のなかに入れられたような気持ちなの。外の世界にあるものを見ることはできるんだけど、そこに行こうとすると、透明な壁に阻まれるの。私、何度もその透明な壁を叩いたわ。でもちっともびくともしないの」

 

 僕はそっと、彼女の近くに立ち、じっと見つめた。彼女が僕を見る。彼女は続ける。いつの間にか人が増えてきた。彼女は続ける。

 

 「私ね、両親が運転する車の後部座席に座るのが大好きだったの。お父さんがドライバーで、助手席にはお母さん。後ろには私がいて、最近あった楽しいことや、今日の晩ご飯なんかについて話すの。ちょっと眠くなってきたら、ドアに肩を預けて眠ったわ。うっすらまぶたを開けると、街灯の光が定間隔に腕を横切るの」

 

 僕は傍らに置いてあった公演のチラシを拾い上げて、立ち去った。だんたんと彼女の声が遠くなる。チラシを丁寧に折りたたんでポケットにしまい、帰り道を歩いた。新宿の空は明るく、街はせわしなく、秋が近い空気を吸い込むと、少し鼻がツンとした。

 

 

http://www.flickr.com/photos/74084423@N00/6975697

photo by Daisei

 

夏の夜のこと

 

 

夏である。

疑うこともなき夏である。

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「…今日、気象庁関東甲信越地方が梅雨明けしたとみられると発表した。例年より二日遅い梅雨明けとなった…」

 

などという何度聞いたか分からないニュースの定型文を聞いて、

あぁ、今年も夏がやってきたんだなと頭で理解する。

そして溜まった洗濯物を干すためにベランダに出て、少し忘れかけていた「夏」を体で理解する。

 

 

日中のうだるような暑さはたまったもんじゃない。

外に出るのがとても億劫になるし、たまったもんじゃない。

食材はすぐ痛むし、冷房代はかさむし、すぐ汗だくになる。

夏なんて…と言いたいところだが、僕は夏の大好きなところがある。

 

 

http://www.flickr.com/photos/92828452@N07/18702638394

photo by kinpi3

 

夜だ。僕は、夏の夜が好きだ。

あのむせ返るような土の匂いや、鼻をじわっと湿らせるような風や、どこか明るいような夜の雰囲気が好きだ。

夏の夜には想い出がたくさん詰まっている。

 

家族と囲んだ花火

 

縁側で食べたスイカ

 

夏祭りの後の名残惜しい帰り道

 

火照った頬を夜風が冷ます、部活の帰り道

 

夜のコンビニのどこか安心するような気持ちと、冷たいアイス

 

いろんな想い出が、夏の夜に詰まっている。

 

そんな夏の夜には、ふとした拍子に懐かしい想い出たちが突然やってきた親戚のように押し寄せてきて、心が「いや、急すぎますよ前もって言ってくれなきゃ…すいません散らかってて…」といった具合に嬉しいやら、迷惑やらな状態になる。

 

僕はもう大人になった。

暑い夜に飲むのは冷たいジュースじゃなくてビールになったし、もうしばらく花火もしていなければ、昆虫を見てもそこまでときめかなくなってしまった。

 

でも、夏の夜の向こう側には、あの時の僕がいる気がする。

 

 おもわず

「あの頃夢見てたかっこいい大人になれてますか?」

とたずねたくなる。

 

そんな昔の自分に背を向けて、鼻歌なんて歌いながらビールとアイスの入った袋を揺らして僕は歩く。

 

夕立が濡らしたアスファルトは、まだ乾くことはなさそうだ。

 

 

http://www.flickr.com/photos/77934271@N03/18961981198

photo by aotaro

 

 

おーしまいっ!

走る

 

  風を切る音を耳で感じながら呼吸のペースを一定に保ちつつ、腕と脚を等間隔でみぎ、ひだり、みぎ、ひだりと振り出す。辺りの風景は流れるように過ぎ去り、僕の身体が空気のかたまりを切り裂いていく。冷たい空気に、鼻が少しツンとする。

 

 僕はこのところ、年末年始にでっぷりついた脂肪を落とすために走っている。

 寒いなか走りこんで身体を温めるとなんだか、いけすかない冬将軍にちょっとした勝利を収められた気がするのだ。でも走ることをやめると、温まった身体はあっという間に冷やされ、僕の反逆は簡単に鎮圧される。

 

 走ることは楽しい。身体は疲れ、水を欲し、心臓がバクバクと鼓動を打つと、あぁ自分は確かにこの地に足をつけて生きているのだと実感する。元はと言えば、高校時代の部活でよく走り、よく疲れ、よく生きることを体感してきたことが始まりなのかもしれない。

 走っている時にはいろいろなことを考える。過去、現在、未来、様々な時間軸に対して、自分の感情や経験を掛けあわせて考える。でも時に、ただただ走っていることだけを考えるときもある。まるで走っているなかで、自分の中の雑念がひとつ、またひとつと砕け落ちるかのようだ。

 

 先日、いつものように走っていると、近くの大きな公園で立派な蜘蛛の巣を見つけた。思わず僕は足を止めて、じっくりとその蜘蛛の巣に見入った。枝の間にかけられたその巣は、直径が30cmはあろうかという大作で、模様は規則正しく網状になっている。肝心の家主は不在のようである。一体これを作り上げるのに、どれくらいの時間がかかるのだろう。そういえば、東京へ来てから蜘蛛の巣を見るのは久しぶりだなと思い、いやまてよ地元でも冬に蜘蛛の巣なんてあまり見かけないんじゃないかなどと考えつつ、また走り始めた。

 

 段々とペースを上げていくなかで、一つの考えが浮かんだ。人間とは、まるで蜘蛛のようなものじゃないか。蜘蛛単体では、獲物を捕まえることは難しい。蜘蛛は、自分の作り上げた網をもってして初めて生きることができる。ここでいう蜘蛛を人間とするならば、蜘蛛の巣は、僕たち人間が作り上げた人間関係や、社会のネットワークだ。その強度や、効率性、大きさなど、価値を測る尺度はいろいろあるかもしれないが、その網がその持ち主の生き方を表す。そう、まるで僕らは蜘蛛のようじゃないか。

 時間をかけて網を作り上げ、何かの拍子に壊されても、また自らの手で修復し、力強く生きていく。時にはその糸が、誰かの最後になるかもしれないし、誰かの救いになるかもしれない。

 

 そう考えていると、あっという間にゴール地点へ着いてしまった。ひと通りのストレッチを終え、帰路につくなかで、そうだ、今日の晩ご飯はまだ食べきれていない揖保の糸にしようと思いついた。我ながら季節感もへったくれもないな、などと考えつつ、カンダタが地獄の底で掴んだものが素麺だったらどうなっていただろう、茹でているか否かで結構違うかな、どちらにせよ絶望だなと思いつつ、僕は家へと歩きはじめた。

 

 

 

 

そこにもひっそりとエイリアン

はいさい!
寒い日が続きますね。
でもこの時期の晴天って空が高く澄み渡って好きです。
 
 

はてさて

 
唐突ですが、みなさんは音楽を聴くことは好きですか?
多分、誰にだって思い入れのある曲があったり、好きなアーティストがいたりするとおもいます。
僕は音楽に関してほんとに雑食で、小節の効いた演歌から繊細なクラシックまでなんでも好きです。最近はアニデレのCDを楽しみにしてます。
 
さて、今日紹介したいのは、キリンジのエイリアンズという曲です。
 
ただ、僕はこの文章を書くことをちょっとためらいました。
個人的な考えとして僕は、人に教えたい音楽とこっそり自分で楽しみたい音楽があると思っています。その境目は難しくて、よく何なんだろうと自分で考えています。たぶん、人にその良さを言語的に説明することが難しくて、自分の非言語的な部分に訴えかけてくる音楽を「こっそりと自分で楽しみたい音楽」と捉えるのかなと思っています。
 
今回紹介したいキリンジは、まさにそのこっそりと自分で楽しみたい音楽に分類されていたのですが、最近すこしずつ言葉で説明できるような気がしてきたので、この文章を書いています。
 

キリンジって?

 
みなさんはキリンジという素敵なアーティストをご存知でしょうか。
独特なサウンドと優しくも艶っぽい歌声、そしてぼんやりと鮮明な情景を浮かび上がらせる歌詞が特徴です。
僕は特にDrifterという曲が好きなのですが、今回はエイリアンズという曲です。
 
百聞は一見にしかず、まずは聞いてみてください。
スマホからこの文章を読んでくださっている方はちょっと一休みして耳をすましてみてください。
PCからこの文章を読んでくださっている方も、たまにはちょっと立ち止まって聞いてみてください。イヤホンやヘッドフォンがおすすめです。
 
 
 
いかがでしたか?
人によって音楽の好みはまちまちなので、「これ好きじゃないや」って方がいても当然です。食べ物の好き嫌いみたいなものですよね。たけのこ派の人にきのこの山の素晴らしさを語っても全く響かないと思うので、もうそこは開き直って「お、これいいじゃん」って思って下さった方に向けて続きを書きますね。
 
もしよければあんまり良いと思わなかった方も読んでください。
 
 

エイリアンって?

 
「まるで僕らはエイリアンズ」そんなフレーズが耳に残ります。
 
まず、「エイリアン」ってなんなんだって思いますよね。
ここでいう「エイリアン」とは、地球を侵略しにきたあのグロテスクなやつらじゃないですよ。
 
alienという単語には、「異邦人、異世界の人、よそもの」という意味もあります。
だからこの歌詞のなかでは、「この世界の人ではない異世界人」という意味で捉えてみます。
 
ただ、後述する歌詞に基づいた連想で気づきますが、宇宙人としてのエイリアンもこの歌詞の意味にかけられているのかなとも思います。
 
そのことを前提においたうえで、この「エイリアンズ」の歌詞を見てみましょう。
 
 
 
こうしてみてみると、「禁断の実 ほおばっては」「誰かの不機嫌も 寝静まる夜さ」「月の裏を夢みて」などまるで何かを暗示しているような言葉が気にかかります。そして「まるで僕らはエイリアンズ」という歌詞。
 
みなさんはどのような情景を連想しましたか?
 

僕としての解釈

 
ここからはこの曲を受けての僕が個人的に連想しまくった世界観です。
 
まず、禁断の実といえば旧約聖書に登場するアダムとイブが口にした知恵の実を連想します。言わずもがななのでこれについては省略しておきますね。
 
Lucas Cranach d.Ä. - Adam und Eva (Courtauld Institute of Art)
 
その知恵の実を頬張った男女ふたりが、この世界に馴染めず、「誰かの不機嫌も寝静まる夜」に息を潜めて「バイパスの澄んだ空気」が流れる「この星の僻地」つまり、郊外のベットタウンのような町で身を寄せ合う姿が思い浮かびます。
 
 
2人は、「月明かりが長い夜に寝つけない2人の頬を撫でて」くれるように、不安や孤独感からか長い夜を過ごしていることでしょう。誰もが寝静まり、ささやかな虫の声と月明かりに包まれるふたりは、まるで見知らぬ世界に取り残された「エイリアンズ」です。
 
そんな2人の静かな関係性が、この歌詞からは浮かび上がってきます。
都会では都会人のふりをして忙しなく動きまわり、人の顔色を伺いながら生きる2人も、ここではその仮面を外すことができます。誰も見ていないから。
 
そして「月の裏を夢みて」という歌詞です。
古代から僕ら人間と深い関係にある月という星は、公転周期と自転周期が同じという不思議な世界のイタズラによって地球へ同じ面しか見せていません。つまり、僕ら地球人はこの星に足をつけている限り、月の裏側を見ることはできないのです。
 
ここでいう「月の裏」という言葉は、未だ見ぬ理想郷や辿り着くことのできない楼閣のようなものでしょう。
そんな場所を、2人は静かな孤独のなかで夢見ているのだと思います。
 
 
この幻想的な情景に、僕は自分を重ね合わせてしまいます。
上京して数年が経ち、当たり前のように最短ルートで電車を乗り換えて、重要な用事があるかのように都会をスタスタと歩き回り、邦の言葉を隠して上手く立ち回る自分の姿です。
でもふと立ち止まってみると、自分はやっぱりこの世界の人間ではなく、キリンジの言うようなエイリアンの一味なんだと感じることもあります。(恋人はいないけどね!!!)
 
これは都内で育った人間であっても共感できる感情なのではないでしょうか。
人は心のどこかに寂しさや孤独を内包していて、その凹みを埋めてくれる何かや、居場所を求めています。
そんな心の凹みを共有しあって、ひっそりと生きている生き物の姿が思い浮かぶのが、このエイリアンズという曲なんだと思います。
 
近いものとしては、ちょっと昔の歌になってしまいますが、stingのEnglishman in New Yorkという曲を連想します。
 
この曲は、ニューヨークに生きるイギリス人の姿を描いています。
そのなかで、
 
I’m an Englishman in New York
I’m an alien, I’m a legal alien
 
僕はニューヨークに生きるイギリス人
僕は異界人、合法的な異界人なんだ
 
という歌詞があります。
この曲はニューヨークというアメリカの象徴的な場所で、自身の流儀を変えずに誇り高くかつ孤独に生きるイギリス人の姿を描いています。
 
奇しくもこの歌詞のなかで用いられているalienという言葉は、まさにキリンジの「エイリアン」という言葉とすごく近いものではないのかなと思います。
 
 
 僕らが生きている日常の陰に、ひっそりとエイリアンが生きているんだと思います。
 
 
 

なんだかんだ僕はTwitterへ帰ることにしたっていうお話

 

はいさい!

 

みなさんご無沙汰してます。

なんだかこのブログを書くたびに「ご無沙汰してます」と言っている

ような気がします…後藤です。

 

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最近の僕はというと、布団からコタツへ最短ルートで潜り込む道筋と、

美味しいみかんの見分け方を研究しています。

 

はてさて

 

前回書いたこの記事がたくさんの共感の声と共に軽くバズり、

今までアクセス数が日に数件だったのが何十倍にも増えました。

みなさんありがとうございます。

結構disられるかなぁと思っていたものの、共感してくださる方が多くて

救われた気分になりました。

ツイ廃だった僕がTwitterから離れようと思ったお話 - ぽけっとぽけっと

 

この記事を書き終えたとき、僕は潔くTwitterから離れようと決意しました。

芸能界から引退する際、深々と礼をして舞台にマイクを置き、静かに立ち去った

山口百恵のようなイメージです。

 

それでも、僕はやっぱりもう一度Twitterへ帰ることにしました。

それにはひとつの理由があります。

 

前置きが長くなりましたが、今日はそんなお話にお付き合い願いたいです。

約半年以上Twitterから離れてみて考えたことを書き連ねます。

いざ参らん!

 

僕と自意識とインターネッツ

 

お恥ずかしながら、僕は誰にでもいい顔をしていたいと思う人間です。

そして、他人との衝突を極度に怖れる傾向があると自覚しています。

それは場を調和させるという長所でもあり、本質的な問題から目を背ける

という短所でもあります。

太宰治人間失格を読んでいると、分かる分かると頷いてしまいます。

 

それによって、Twitterでの一言一句が

 

誰にどう見られているのか

これによって誰がどんな気持ちになるのか

それによって自分がどんな状態になるのか

 

などなど考えに考え過ぎてしまうところがあります。

 

しかしこれは、全て自分がたくさんの誰かに「見られている」

という前提になりたっています。

僕らは日頃目にする情報全てに目を通したり、覚えていたりする

わけではありません。

それなのに、僕は常に誰かに見られているんだ…と思い込みすぎていました。

 

もちろん、ある程度「誰かに見られている」という意識は必要だと思います。

なぜならそれは一定の倫理観を生む源泉となり、社会の規範を内なる目として

僕のなかに内在させるからです。

しかし、あまりにもそれを意識していると、様々な問題が生じてきます。

 

つまるところ、僕は自意識過剰だったのです。

 

「誰も僕のことなんて見ていない」

 

Twitterから離れていろいろとフラフラ生きてみて、いろんなことを

考えていました。そこで行き当たったのは、

 

誰も僕のことなんて見ていない

 

ということです。

 

僕はTwitterでいつしか自分は常に見られているんだ!!と思うあまり、

いつの間にか、自分ではない何かを演じていました。

それは多分、様々なものが行き交うこの社会やインターネットで、自分は

「何者」かになりたいという願望がそうさせていたんだと思います。

 

でも考えてみると、これは笑っちゃうほどの自意識過剰でした。

 

僕ら人間は忘却に忘却に重ねる生き物です。

それはいつか、全てを受け入れられるために備えられた便利な機能なのかもしません。

 

当時は死ぬほど恥ずかしかったことや落ち込んでばかりいた哀しいことも、

枕に顔を埋めてバタバタしたりしているうちに

いつか時の流れに流されて、その思い出の角は丸くなっていきます。

 

そんな生き物が形作る社会において、僕は常に周りの目ばかりを気にして、

足踏みばかりしている自分の姿に気づかされました。

 

僕は誰かに見られていると思う自意識ゆえに、

恥をかくこと、失敗することからも逃げていました

そう、そしてこれは確実に自分の成長を妨げる足かせになっていました。

 

人間を刀で例えるならば、まだ熱い状態なのに鍛えることから逃げ、ただただ

冷えるのを待っているようなものです。

これでは実戦でポッキリと折れてしまうことが目に見えています。

 

今日から僕は!!

 

僕はそんな今までの自分を改め、

 

思いっきり恥をかくことを怖れないようにします。

誰かに批判されても、それを真正面から受け止めます。

そして自分の気持ちや言葉を、素直に表現していきたいと思います。

 

もし失敗したり、恥をかいたりしてもそこまで気にしないようにします。

だってそれをみんなきっと忘れるから。

なんなら、みんなそれを見ていないから。 

 

それでもし、はじめて僕のことをしっかりと見てくれる人がいたのなら、

僕はその人たちのために何か素敵なものを生み出せる人になりたいと思いました。

 

そのはじめの一歩を、まずはTwitterでグッと踏み出してみます。

 

なぜTwitterなのかというと、ちょっとした運命を感じたからです。

というのも、アカウントを削除して半年がたった頃、なんとなくTwitterに古い

アカウントでログインしたところ、なんとアカウントが残っていたのです!

 

結構驚きました。聞くところによると、アカウントが削除されて一ヶ月が経つと

データが抹消されるそうなのですが、何故か僕のアカウントは残っていました。

不思議なことに、同時期に削除した他のアカウントはみんな抹消されていました。

 

たぶん、アカウントの開設が古いことや、ツイート数が多いことが原因なのかなと

思ってます。もしくはTwitter社が僕のことを見てくれてた??

 

自分にインターネットの楽しさをたくさん教えてくれたTwitterと、そして

自分自身と改めて真正面から向き合っていきます。

 

 

長くはなってしまいましたが

これからもTwitterがんばるし、人生がんばるぞ!

というお話です。

 

 

さんかくのことばと、しかくのこころを大切に頑張って生きていきます。

 

 


くるり - 言葉はさんかく こころは四角 オーケストラVer. - YouTube

 

 

 またねーん!

 

 

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ツイ廃だった僕がTwitterから離れようと思ったお話

はいさい!

みなさんお久しぶりです後藤です。

最高の夏の足音が近づいてきましたね。

 

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はてさて

私事ではありますが、5年ほど続けたTwitterから離れることを決めました。

もうしばらくTwitterにログインしてないのですが、数人の方から「大丈夫?生きてる?」と本気の心配をして頂いたので、理由を説明します。

 

その理由をここで改めて述べておくことと、自分の考えを整理する必要があると思ったので、この文章を書いています。

「むかしはよかった」なんて言いたくありませんが、僕はTwitterの変化についていけないし、これ以上Twitterの呟きを元に揉めたくないのです。なかよしインターネッツをもとめて、さらばだついったー

 

僕とついったー 

みなさんTwitterやってますか?

僕はがっつりやってました。

僕は、Twitterが大好きでした。

いわばツイ廃というやつです。

時間があればTLを覗き、感じ考えたことを呟き、呼吸するようにふぁぼってました。

 

遡ること約五年前、たまたまTwitterを知った後藤少年はアカウントを開設します。その後、アカウントを変えたりもしましたが、ほぼほぼ毎日呟きつづけ、最もよく使用したアカウントは40000ツイートを越えるまでに至りました。

 

結局開設したアカウントは10を越え、全てのアカウントのツイートを合わせると100000ツイートを優に越えます。自分でもどれだけの時間をTwitterに費やしていたのかと考えるとゾッとします。

しかし、Twitterはただの時間の浪費だったかというと、そうではないと断言できます。

 

上京してからずっとお世話になっているベンチャーも、各方面で活躍する優秀な友人達も、自分と限りなく趣味が近い友人達も、全てTwitterがきっかけでより深い交友関係を築くことができました。

面白いイベントを見つけたり、美味しいお店を知ったり、興味深い記事が流れてきたり、主体性が試されるインターネットにおいてTwitterは、僕にとって唯一受動的なメディアでした。

 

 

そして、本当に楽しかった。

 

 

稚拙ながら自分の政治や経済についての考えを呟けば、それに優しく応えてくれる人がいた。大好きな文学作品について呟けば、共感してくれたり興味を持ってくれる人がいた。行き場のない弱音を吐けば、励ましてくれる人がいた。

また、著名人(その当時はTwitterをやってる著名人は本当に少なかった)にリプライを飛ばして返事が来たときは震えるほど嬉しかったのを覚えています。

 

僕は本当にTwitterが大好きでした。それまでずっと2ちゃんねるに入り浸っていた僕は、すぐに拠点をTwitterに移しました。僕はそこでいろんな人や考え方に触れ、その楽しさに肩までどっぷり浸かっていきました。

 

さっきも書きましたが、本当に楽しかった。

 

そして、自分の考えをまとめたり、気持ちを整理したり、ストレスを発散するのにTwitterは最適でした。Twitterを初めて約5年間、Twitterは僕の習慣となり、僕の生活の一部となりました。

 

しかし、そんなTwitterにも変化の波が押し寄せます。

 

 

変わっていくついったー

 

ちょっと前まではテレビでTwitterを紹介する際、「短文投稿サイト」などど紹介されていました。

しかし、今やTwitterという言葉は市民権をがっしりと掴み取りました。 スマホの普及に伴い、ユーザー数が爆発的に増加したのです。また、映画やドラマなどで登場人物がTwitterをチェックするシーンなども増え、ユーザー数の増加に拍車をかけます。

 

そして時が経つにつれ、Twitterが自己顕示欲、承認欲求の発散場所として捉えられるようになりました。特に高校生や大学生の界隈では、昨年直木賞を受賞した朝井リョウの「何者」で描かれているような、「意識高い」アピールが頻繁に行われるようになりました。

誰だって 他人とは違う、「何者」かである自分をアピールすることに必死でした。

 

「◯◯を読み解く。近代ヨーロッパにおける個人の変遷は実に興味深いなぁ…」

「今日は六本木で上司たちとご飯に行ってきた!いつもごちそうさまです!」

「◯◯(@〜〜〜〜)と代官山のスタバで遭遇。久しぶりに語ったなぁ…」

(こんなんばっかです…おうふ…)

 

何者

 

 

また、バイト先の冷蔵庫に入った写真をアップして炎上したり、殺人などの犯罪予告をしたり、他人の愚痴や批判で注目を集めるような人も増えました。 母数が増えればそれは必然なのかもしれませんね。

 

 

そんな流れのなかで、「Twitterで呟いたことには、絶対何かしらの自己顕示欲的、承認欲求的な意図がある」という論調が生まれました。さながら精神分析家のように、「この呟きにはこのような意図がある!!」と捉えられることが増えました。インターネットでは、自分が思ってる以上にいろんな人が自分の発言を監視しています。

 

「友達と自由が丘のカフェに行った」と呟けば

は〜オシャレな場所でオシャレな食事してる自分をアピールしたいのね」と捉え、

 

「はぁ…ちょっと辛いな」などと病みツイートを呟けば

は〜病んでる自分をアピールして慰めてもらいたいのね」と捉え、

 

「酔った女の子に冗談半分で口説かれた〜笑」と呟けば

は〜ある程度女にモテる自分をアピールしたいのね」と捉えるような感じです。

 

かぁ〜〜めんどくさっっっっ!!!

 

そうです、単純に僕はTwitterというものがめんどくさくなりました。そして、前ほど面白いと思えなくなりました。

 

「考えすぎなんじゃないの?…」という方がいるかもしれませんが、実際に僕は上に述べたようなことを言われ、更には「まぁ誰だって人気者に思われたいしね^^」などど言われる始末です。確かにそう捉えられるような発言をしていた僕が悪いですね。

 

それまで僕は、自分が考えたことや感じたことを気軽に呟いて、それに関することを誰かが付け足してくれる、オープンなメモ帳みたいな感覚でTwitterを活用してました。

 

しかし、いつの間にかそんな使い方をしていては、見えない誰かに串刺しにされる世の中になっていたようです。しかし、それが正しいTwitterであり、インターネッツなのかもしれません。僕は、寝ぼけていたのかもしれません。

 

メモ書き程度に書いたことや、好きで発した言葉を

 

それは誰に向けた言葉なんですか?

 

その真意は?動機は?

 

とか聞かれても、なんも言えないです。ごめんなさい。

 

そんなこんなで、前々から「そろそろTwitterやめるかな…」という想いが強まってきました。そしてこのまま惰性で続けていってもしょうがないと思い、あいぽんからTwitterのアプリを消し、Macから夜フクロウを消し、ChromeのブックマークからTwitterを外しました。アカウントを消す勇気がないのはご愛嬌…(追記:アカウントを削除して一ヶ月が経ちました。もうアカウントが復活することはありません。)

 

ついったーを離れてみて

 

ある程度Twitterから離れてみて、本を読む時間が増えました。

勉強する時間も増えたし、PCで作業している時の効率があがりました。

沈黙は思考の幹だと誰かが言っていましたが、じっくりと考えることも増えたと思います。

 

今のところ、脱Twitterは結構いい影響を及ぼしているんじゃないかと思います。

 

 

最後に

 

「メモ書きなら、実際にメモ帳へ書けばいいじゃない。Twitterで呟くことないでしょ」

 

最近そう言われました。

 

ぐうの音も出ない正論です。ぐう正論。

 

「僕にとってのメモ帳はTwitterで〜〜」などど反論するつもりはありません。Twitterで呟いた時点で、誰かからの反応や、誰かからの視線を気にしなければならないんだと思います。それが本当のインターネッツですね。

だから僕は感じ考えたことを実際にメモ帳に書き連ねています。現在進行形です。

 

SNSが盛り上がりを見せる今日、僕らは“つながり”という名のもとにお互いを監視しあい、見えない鎖でがんじがらめにしているんだと痛感しました。

 

Twitterで発散できないストレスやフラストレーションは、他の何かに昇華していきたいと思います。Facebookも辞めたいけど、業務連絡やらなんやらで辞めれそうにないです。あーめんどくさい…

 

でも本当にTwitterには感謝してます。今までありがとうございました。そんな、懐古厨かつ老害の、老害なりの考え方とその誤りでした。

もしかするともしかして、アカウントを再活用する日が来るかもしれません。

 

 

そんなこんなで、カッコ悪い自分語りと自虐ネタと、言い訳に満ちた久しぶりのブログ記事でした。

 

 

 

 

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おーしまいっ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うそつき

 

あるところに、うそつきの男がいました。

 

ほんとうによくうそをつくその男は、毎日うそをついて、自分の都合がいいように生きてきました。

ある日、そんな男を見かねた神様が、罰をくだしました。

それは、「ついた嘘が全て本当になってしまう」というものでした。

男は、「ふふ、神様め。俺様への罰を褒美と間違えたな。」と、したり顔でにやにやしていました。

 

今まで男がついてきたうそ。

「村一番の美女が俺のことを好きらしい」「俺は大成功する秘訣を知ってるんだ」「今度の満月の晩に、大雨が降るんだ。そんでもって、さそり座のあの星と一本松が重なる日を境に気温がぐっと下がるんだ。俺は天気を正確に知れるんだぞ」…

その数は数えきれません。

 

そして、それが全て本当になりました。

村一番の美女に愛され、大成功を収めた男は、幸せそのものに見えました。美女との結婚式にはもちろん、気持ちが良い晴れの日を選びました。男はその美女のことを本当に愛していたし、美女も男のことを愛していました。

 

しかし、だんだん男はその生活に違和感を抱きました。

「お前のことを愛しているよ」「たまご山に橋をかける工事をすれば、大儲けできる」「次に霜柱が立った日に収穫した大根が一番高く売れるぞ」…

 

軽い気持ちでついた嘘が全て現実となるのです。

これはどうしてなかなか、気持ちの悪いものです。

 

そしてある日、彼はとある失敗を犯してしまいます。

それは、村の酒場で若い女と喋っていたときのことです。

男はひどく酒に酔っていて、若い女に「あなた、家庭とかあるんじゃないの?」と聞かれた時、こう答えたのです。

「あぁ、女房なら死んじまったよ。あれは辛かったな」

単なる出来心でした。若い女に「まあ!それはごめんなさいね…」と、同情して欲しかっただけかもしれません。でも、それさえ現実になってしまったのです。

 

美女は死にました。

男は、自分の失言をただただ恨み、毎晩泣いて過ごしました。パンも喉を通らず、水さえろくに口にしない男は、日に日にやせ細っていきました。

 

そんなある日、男のことを心配した友人が、お見舞いにやってきました。

彼は自分の畑で採れたみずみずしいぶどうと、頂きものの梨を2つ持ってきました。

そういったものの方が食べやすいと思ったからです。

新聞受けに新聞がぎっしり詰まったドアを二回ノックすると、げっそりやせ細った男が顔を出しました。

「やぁ、こんなときにすまない。調子が気になってね。最愛の人を亡くすことは辛かろう。僕も愛していた犬のケニーが死んだ時は本当に辛かったよ」友人は、男を傷つけないよう、極力配慮をしたつもりでした。

しかし、それが逆に仇になったのです。

男は、最愛の人が犬と比べられたことや、友人の能天気さ、そしてその他もろもろに無性に腹が立ちました。

 

すると、男は思わずこう言ったのです。

「僕は別に彼女のことなんて忘れたから悲しくないし、ここまで失礼な発言をする君みたいなやつなんて、もう友達じゃない」

しまった。男は、だらりと冷や汗が背中をつたうのを感じ取りました。

 

あっという間に男は哀しい気持ちなんて吹っ飛んで、もはや死んだ彼女のことなんてどうでもよくなりました。そして、さっきまで心配そうに男を見つめていた友人が、「おや、僕はどうしてこんなところにいるんだろう。やぁ、初めまして。ここは君のお家なのかな?ちょっと僕記憶が混乱してて…」などど言い出したのです。

 

「そうか、そういうことだったのか神様よ」男は、心のなかで呟きました。

 

それから男は、その無口さで有名な変わり者として、一生を終えたのでした。

 

おしまい