アボカドの固さ ―ドキュメンタリーとフィクションのあわい―
アボカドの固さをそっと確かめるように抱きしめられるキッチン
アボカドを最初に食べた時のことをよく覚えている。小学四年生の頃。母親がアボカドをつまみにビールを飲んでいた。おすすめはわさび醤油をつける食べ方らしい。どんなものかと気になり食べてみると、わさびと醤油が口を支配したのち、なんだかよくわからない青臭さが漂った。今思うと、あれは食べごろのアボカドではなかったのかもしれない。
映画「アボカドの固さ」は、5年付き合った恋人(しみちゃん)に突然別れを告げられ、途方に暮れながらもどうにか復縁できないかと画策する俳優(前原)の物語である。と、ここまで聞くと「なんだよくあるやつね」と思われるかもしれないが、ちょっと違う。この物語、原案は主演の前原瑞樹本人の経験なのである。つまり、主演の経験を本人自らが演じて映画としている。これはおそらく、あまり例のない作品だ。劇中では振られた前原が右往左往するなかで別の恋を探してみたり、友人と喧嘩してみたり、なれない煙草を吸ってみたりと僕を含めた男性諸君の泣き所を的確に叩く「イタさ」が散りばめられている。劇中、傍らに枕があったら顔をうずめて「うわあぁぁぁ」と叫びたくなる瞬間が5回ほどあった。
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スクリーンから吐息が薫るようなリアリティの源泉となっているのは「言葉」と「映像」の巧妙な演出によるものだと思う。
例えば、言葉遣い。
振られた前原が後輩を集めて飲み会を開き、失恋を「ネタ」にしてその場の主役として話をし、オチを付け、場を回すシーン。セリフ、表情、仕草、場の空気感のどれをとっても現実そのもので、隣のテーブルで酒を飲んでいる気分になる。ほかにも、正直よくわからない元カノ(しみちゃん)の話、すこし噛み合わないしみちゃんのお母さんとの会話、途端にオラオラ口調になるキレた後輩…などなど挙げればキリがない。「自然風」な映画やドラマはよく見てきたが、ここまで「自然」そのものな言葉遣いは初めてだった。
例えば、映像。
ワンカット、長まわしの映像が多く、カットが割られた映像よりも格段に現実味を感じられる。そして一瞬、話者がどこにいるのか戸惑うほど「引き」の映像も多く、のぞき見している感覚、あらゆる地点でたまたま見ちゃった聴いちゃったという感覚が蓄積される。そして無言のタクシーの車内や食事シーンなどがたっぷり使われる。そこにはたぶん、一見特に意味はないように見えるけれども、ともに時間を過ごしている感覚を与えるという効果があると思う。
こうした演出のもと紡がれたこの物語。一見するとドキュメンタリーなのか、フィクションなのか判断がつかない。
上映後のトークイベントで監督の城真也氏が「いくつか脚色したり、時系列を入れ替えたところはある」と言っていたので分類としてはフィクションになると思うが、「主演の経験が原案となっている」という強烈な個性に加え、前述した演出も相まってドキュメンタリー寄りと感じる。しかしとはいえ、いわゆる「ドキュフィクション」や「モキュメンタリー」ではない。そんな、ドキュメンタリーとフィクションのあわいで絶妙なバランスをとって存在している。そういう意味で、新しい映画だったと思う。
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終盤、前原がしみちゃんと再会し、胡散臭い手相占いをするシーンがある。ここの解釈をめぐり、同じく作品を見た同年代の女性と見解が分かれた。
彼女曰く、「『なぜ手相占いをして、90何歳まで長生きする、多くを望まなければ仕事でも成功する』など言っていたのかよく理解できない」と。上映後のトークイベントに登壇した映画監督の冨永昌敬氏も「あの手相占いはどれぐらい信憑性があるものとして捉えればいいのか」と城監督に質問していた。
恋愛雑魚の僕が僭越ながらあのシーンを補強すると、前原はその前に、クラブでナンパした女に手相占いを教えてもらい、「自然と手を触れられ、自然と恋愛の話に発展させられる」という旨味を知っている。僕自身の記憶でも「手相を学べば自然と女性の手に触れられる」と得意げに語る先輩の姿がある。(僕の手相は「めちゃくちゃラッキーなやつ」らしい)
だからこそ、再会したしみちゃんに「手相占ってあげるよ」と切り出し、意図的にふれあい、自然と恋愛の話へ移行しようとしたのだ。しかし現実は上手くいかない。健康のことや仕事のことなど、恋愛とは関係ない運勢を聞くしみちゃんに対し、前原はその場しのぎの適当なことを口走り、最後は自ら恋愛線は…と喋り始める。そんな前原の下心と必死さと不器用さが表れたシーンだと思う。
その旨を先述の友人女性に伝えたところ「多くの女性は『異性に触れたい』という気持ちを持っておらず、その動機は理解し得なかった」と返ってきた。うーんたしかに。またひとつ、僕が「当たり前」と思っていることが当たり前じゃないと思い知った瞬間だった。
ちなみに城監督と僕は同じ1993年生まれで、同じ大学かつ所属していたコミュニティーが近かったこともあり、彼のことを一方的に知っていた。そんな彼の作品に少なからず嫉妬し、「がんばらなきゃ…」と静かにこぶしを握る僕もまた、青くて固いアボカドのように未熟なんだと思う。
新宿のまんなかで
「ねぇ、知ってる?映画館の近くにはだいたいマクドナルドがあるのよ。私はね、映画が始まる時間よりもだいぶ早くに映画館へ来て、マクドナルドでハンバーガーなんかを食べながらボーっとするのが大好きなの」
飲み会で面倒な女にひっかかったのではない。世界有数の大都会、東京は新宿の三丁目、たくさんの人が行き交う道端で、彼女は歩きゆく観客たちへこう語りかけていた。見ると、来週末に近くの劇場で行う公演の宣伝らしい。オリーブ色のスカート、白いシャツを着た彼女の耳元には、赤い木の実のようなピアスが揺れている。整った顔立ちを豊かに変化させながら愉しそうに一人、劇を演じていた。
僕は路上の小劇場を何気なく通り過ぎたあと、ちょっと離れたところでさも誰かを待っているかのような素振りで立ち止まった。彼女の声がよく聞こえる。どうやら何かしらのストーリーに沿いながら、自由に言葉を紡いでいるらしい。
彼女の前を多くの人が通り過ぎる。何も聞こえていないかのように素通りする人、チラチラと見ている人、通りすぎた後にクスクス笑っている人、いろんな人がいる。決して反応が良いとはいえなさそうだが、彼女は続ける。
「あのね、私は主人公気質なの。小中高と、何か主役になれそうな機会があれば真っ先に手を挙げてきたわ。学級委員、生徒会長、部活のキャプテン、なんでもよ。でも社会に出てみたらどうかしら。私は主人公どころか、この社会の脇役にさえなれていない気がしてならないの」
一体どんな話なのだろう。僕はイヤホンをつけている。音楽はかけずに、彼女が大都会の真ん中で語りかける言葉に耳を傾ける。
「いま、私ね、なんだか大きな瓶のなかに入れられたような気持ちなの。外の世界にあるものを見ることはできるんだけど、そこに行こうとすると、透明な壁に阻まれるの。私、何度もその透明な壁を叩いたわ。でもちっともびくともしないの」
僕はそっと、彼女の近くに立ち、じっと見つめた。彼女が僕を見る。彼女は続ける。いつの間にか人が増えてきた。彼女は続ける。
「私ね、両親が運転する車の後部座席に座るのが大好きだったの。お父さんがドライバーで、助手席にはお母さん。後ろには私がいて、最近あった楽しいことや、今日の晩ご飯なんかについて話すの。ちょっと眠くなってきたら、ドアに肩を預けて眠ったわ。うっすらまぶたを開けると、街灯の光が定間隔に腕を横切るの」
僕は傍らに置いてあった公演のチラシを拾い上げて、立ち去った。だんたんと彼女の声が遠くなる。チラシを丁寧に折りたたんでポケットにしまい、帰り道を歩いた。新宿の空は明るく、街はせわしなく、秋が近い空気を吸い込むと、少し鼻がツンとした。
夏の夜のこと
夏である。
疑うこともなき夏である。
「…今日、気象庁は関東甲信越地方が梅雨明けしたとみられると発表した。例年より二日遅い梅雨明けとなった…」
などという何度聞いたか分からないニュースの定型文を聞いて、
あぁ、今年も夏がやってきたんだなと頭で理解する。
そして溜まった洗濯物を干すためにベランダに出て、少し忘れかけていた「夏」を体で理解する。
日中のうだるような暑さはたまったもんじゃない。
外に出るのがとても億劫になるし、たまったもんじゃない。
食材はすぐ痛むし、冷房代はかさむし、すぐ汗だくになる。
夏なんて…と言いたいところだが、僕は夏の大好きなところがある。
夜だ。僕は、夏の夜が好きだ。
あのむせ返るような土の匂いや、鼻をじわっと湿らせるような風や、どこか明るいような夜の雰囲気が好きだ。
夏の夜には想い出がたくさん詰まっている。
家族と囲んだ花火
縁側で食べたスイカ
夏祭りの後の名残惜しい帰り道
火照った頬を夜風が冷ます、部活の帰り道
夜のコンビニのどこか安心するような気持ちと、冷たいアイス
いろんな想い出が、夏の夜に詰まっている。
そんな夏の夜には、ふとした拍子に懐かしい想い出たちが突然やってきた親戚のように押し寄せてきて、心が「いや、急すぎますよ前もって言ってくれなきゃ…すいません散らかってて…」といった具合に嬉しいやら、迷惑やらな状態になる。
僕はもう大人になった。
暑い夜に飲むのは冷たいジュースじゃなくてビールになったし、もうしばらく花火もしていなければ、昆虫を見てもそこまでときめかなくなってしまった。
でも、夏の夜の向こう側には、あの時の僕がいる気がする。
おもわず
「あの頃夢見てたかっこいい大人になれてますか?」
とたずねたくなる。
そんな昔の自分に背を向けて、鼻歌なんて歌いながらビールとアイスの入った袋を揺らして僕は歩く。
夕立が濡らしたアスファルトは、まだ乾くことはなさそうだ。
おーしまいっ!
走る
風を切る音を耳で感じながら呼吸のペースを一定に保ちつつ、腕と脚を等間隔でみぎ、ひだり、みぎ、ひだりと振り出す。辺りの風景は流れるように過ぎ去り、僕の身体が空気のかたまりを切り裂いていく。冷たい空気に、鼻が少しツンとする。
僕はこのところ、年末年始にでっぷりついた脂肪を落とすために走っている。
寒いなか走りこんで身体を温めるとなんだか、いけすかない冬将軍にちょっとした勝利を収められた気がするのだ。でも走ることをやめると、温まった身体はあっという間に冷やされ、僕の反逆は簡単に鎮圧される。
走ることは楽しい。身体は疲れ、水を欲し、心臓がバクバクと鼓動を打つと、あぁ自分は確かにこの地に足をつけて生きているのだと実感する。元はと言えば、高校時代の部活でよく走り、よく疲れ、よく生きることを体感してきたことが始まりなのかもしれない。
走っている時にはいろいろなことを考える。過去、現在、未来、様々な時間軸に対して、自分の感情や経験を掛けあわせて考える。でも時に、ただただ走っていることだけを考えるときもある。まるで走っているなかで、自分の中の雑念がひとつ、またひとつと砕け落ちるかのようだ。
先日、いつものように走っていると、近くの大きな公園で立派な蜘蛛の巣を見つけた。思わず僕は足を止めて、じっくりとその蜘蛛の巣に見入った。枝の間にかけられたその巣は、直径が30cmはあろうかという大作で、模様は規則正しく網状になっている。肝心の家主は不在のようである。一体これを作り上げるのに、どれくらいの時間がかかるのだろう。そういえば、東京へ来てから蜘蛛の巣を見るのは久しぶりだなと思い、いやまてよ地元でも冬に蜘蛛の巣なんてあまり見かけないんじゃないかなどと考えつつ、また走り始めた。
段々とペースを上げていくなかで、一つの考えが浮かんだ。人間とは、まるで蜘蛛のようなものじゃないか。蜘蛛単体では、獲物を捕まえることは難しい。蜘蛛は、自分の作り上げた網をもってして初めて生きることができる。ここでいう蜘蛛を人間とするならば、蜘蛛の巣は、僕たち人間が作り上げた人間関係や、社会のネットワークだ。その強度や、効率性、大きさなど、価値を測る尺度はいろいろあるかもしれないが、その網がその持ち主の生き方を表す。そう、まるで僕らは蜘蛛のようじゃないか。
時間をかけて網を作り上げ、何かの拍子に壊されても、また自らの手で修復し、力強く生きていく。時にはその糸が、誰かの最後になるかもしれないし、誰かの救いになるかもしれない。
そう考えていると、あっという間にゴール地点へ着いてしまった。ひと通りのストレッチを終え、帰路につくなかで、そうだ、今日の晩ご飯はまだ食べきれていない揖保の糸にしようと思いついた。我ながら季節感もへったくれもないな、などと考えつつ、カンダタが地獄の底で掴んだものが素麺だったらどうなっていただろう、茹でているか否かで結構違うかな、どちらにせよ絶望だなと思いつつ、僕は家へと歩きはじめた。
そこにもひっそりとエイリアン
はてさて
キリンジって?
エイリアンって?
僕としての解釈
うそつき
あるところに、うそつきの男がいました。
ほんとうによくうそをつくその男は、毎日うそをついて、自分の都合がいいように生きてきました。
ある日、そんな男を見かねた神様が、罰をくだしました。
それは、「ついた嘘が全て本当になってしまう」というものでした。
男は、「ふふ、神様め。俺様への罰を褒美と間違えたな。」と、したり顔でにやにやしていました。
今まで男がついてきたうそ。
「村一番の美女が俺のことを好きらしい」「俺は大成功する秘訣を知ってるんだ」「今度の満月の晩に、大雨が降るんだ。そんでもって、さそり座のあの星と一本松が重なる日を境に気温がぐっと下がるんだ。俺は天気を正確に知れるんだぞ」…
その数は数えきれません。
そして、それが全て本当になりました。
村一番の美女に愛され、大成功を収めた男は、幸せそのものに見えました。美女との結婚式にはもちろん、気持ちが良い晴れの日を選びました。男はその美女のことを本当に愛していたし、美女も男のことを愛していました。
しかし、だんだん男はその生活に違和感を抱きました。
「お前のことを愛しているよ」「たまご山に橋をかける工事をすれば、大儲けできる」「次に霜柱が立った日に収穫した大根が一番高く売れるぞ」…
軽い気持ちでついた嘘が全て現実となるのです。
これはどうしてなかなか、気持ちの悪いものです。
そしてある日、彼はとある失敗を犯してしまいます。
それは、村の酒場で若い女と喋っていたときのことです。
男はひどく酒に酔っていて、若い女に「あなた、家庭とかあるんじゃないの?」と聞かれた時、こう答えたのです。
「あぁ、女房なら死んじまったよ。あれは辛かったな」
単なる出来心でした。若い女に「まあ!それはごめんなさいね…」と、同情して欲しかっただけかもしれません。でも、それさえ現実になってしまったのです。
美女は死にました。
男は、自分の失言をただただ恨み、毎晩泣いて過ごしました。パンも喉を通らず、水さえろくに口にしない男は、日に日にやせ細っていきました。
そんなある日、男のことを心配した友人が、お見舞いにやってきました。
彼は自分の畑で採れたみずみずしいぶどうと、頂きものの梨を2つ持ってきました。
そういったものの方が食べやすいと思ったからです。
新聞受けに新聞がぎっしり詰まったドアを二回ノックすると、げっそりやせ細った男が顔を出しました。
「やぁ、こんなときにすまない。調子が気になってね。最愛の人を亡くすことは辛かろう。僕も愛していた犬のケニーが死んだ時は本当に辛かったよ」友人は、男を傷つけないよう、極力配慮をしたつもりでした。
しかし、それが逆に仇になったのです。
男は、最愛の人が犬と比べられたことや、友人の能天気さ、そしてその他もろもろに無性に腹が立ちました。
すると、男は思わずこう言ったのです。
「僕は別に彼女のことなんて忘れたから悲しくないし、ここまで失礼な発言をする君みたいなやつなんて、もう友達じゃない」
しまった。男は、だらりと冷や汗が背中をつたうのを感じ取りました。
あっという間に男は哀しい気持ちなんて吹っ飛んで、もはや死んだ彼女のことなんてどうでもよくなりました。そして、さっきまで心配そうに男を見つめていた友人が、「おや、僕はどうしてこんなところにいるんだろう。やぁ、初めまして。ここは君のお家なのかな?ちょっと僕記憶が混乱してて…」などど言い出したのです。
「そうか、そういうことだったのか神様よ」男は、心のなかで呟きました。
それから男は、その無口さで有名な変わり者として、一生を終えたのでした。
おしまい
ほしにねがいを
チェット・ベイカーという、素敵なジャズミュージシャンがいます。
僕は彼の音楽が大好きで、よく聞いてます。
彼の曲の中でも、群を抜いて有名かつ好きな曲に、「but not for me」という曲があります。
Chet Baker - But Not For Me - YouTube
歌詞の冒頭を簡単に訳すると
They're writing songs of love - but not for me
A lucky star's above - but not for me
With love to lead the way I've found more skies of gray
Than any Russian play - could guarantee
愛の歌が溢れ、幸運の星が瞬いているけど、それらは僕のためじゃない。
恋に誘われたけど、そこには暗雲が立ち込めていて、ロシア映画でさえこんなことにはならないだろう…
みたいな感じです。かなり適当に訳しました、すいません。
気怠そうな歌い方が特徴的ですよね。すごく素敵です。
歌詞をじっくり読んでみると、マドンナへの恋に絶望するものの、「まぁ、がんばるしかないわな」と小さなため息をこぼす青年の姿が目に浮かびます。
なにかがとことん上手くいかないとき、世の中の全てにムカついちゃうことがあります。どんなに素敵なものに出会っても、それこそ「だけど、僕のためじゃない」なんて思っちゃって、そっぽを向きたくなるあの気持ちです。そんなとき、まぁしょうがないかと開き直れるかどうかが人生を左右しちゃったりするんだろうなと、勝手に思ってます。
ちょっと遠くにあるものを目指して、手を伸ばしながらも、やっぱり上手く行かなくて、「やれやれ、だな」とか村上春樹っぽく自嘲的に生きていくのも悪くないと思います。
背筋をピーンと伸ばして生きていくのも大事ですが、適度に息抜きして生きていきたいと思います。
大きな失敗、親友の裏切り、哀しい失恋、親しい人の死、その全てが心の成長痛なんだと思います。
思います、思います、思います。
世知辛い世の中ですが、どうにか頑張りましょう。
くるりと自分に9割方向けた、自己満足メッセージでした。
ピーン
まーたねーん